東金御成街道は千葉県船橋市本町から同県東金市田間、同県山武市小松までの約37キロメートルをほぼ一直線に結んでいる街道である。なお東金市田間から山武市小松までの部分は砂押街道と呼ばれる。徳川家康が九十九里方面での鷹狩のために土居利勝に命じて造らせたといわれている。(Wikipediaより)
家康は無類の鷹狩好きであった。1605年征夷大将軍を秀忠に譲ってからは、駿府城に居住したが、駿府近郊はもちろん武蔵国でも毎年2回以上鷹狩を楽しんでいる。ただし1613年11月に戸田、川越、岩槻、忍、越谷、葛西にて鷹狩をしたあとの2年間は鷹狩をする余裕もなかった。この頃大坂の豊臣方との関係が悪化し、豊臣方は密かに全国から浪人を集めて戦闘の準備を始めていた。そして1614年11月大坂冬の陣、翌年1615年4月大坂夏の陣が戦われ、戦後処理が大方かたづいた1615年の9月から、それまでの2年間の空白を埋めるかのように、鷹狩を再開し頻繁に鷹狩を催すのである。
東金御成街道は、豊臣方との緊張が増してきた1614年正月にその着工を命じている。その着工を命じたあとは鷹狩を行っておらず、家康の頭の中では、豊臣家を滅ぼす決心を固めた時期と考えられる。以下に家康の対豊臣政策と鷹狩行事との対比年表を示した。
時期 |
西暦 |
家康の対豊臣政策 |
鷹狩に関する出来事 |
慶長11年 | 1606 | 11月 葛飾、川越、戸田にて鷹狩 | |
12月 家康の命令で秀忠が領内視察の鷹狩 | |||
慶長12年 | 1607 | 改修した駿府城に移る。大御所と呼ばれる。 | 朝鮮使節団 家康に大鷹50羽を献上 |
11月 浦和、川越、忍にて鷹狩 | |||
慶長13年 | 1608 | 大坂方が朝廷に働きかけ秀頼を左大臣にする兆候を事前に捉え、これを阻止する。 | 9 月 関東各地にて鷹狩 |
12月 江戸を発ち、鷹狩をしながら駿府へ | |||
慶長14年 | 1609 | 秀頼 方広寺大仏殿工事を決定 | |
慶長15年 | 1610 | 大仏殿工事開始 | 閏2月 家康の命令で秀忠が三河で鷹狩 |
11月 駿府を発ち、鷹狩をしながら江戸へ | |||
慶長16年 | 1611 | 家康 二条城にて秀頼と対面 | 11月 忍にて鷹狩 |
慶長17年 | 1612 | 大仏及び大仏殿完成。名古屋城普請完了 | 閏11月関東で鷹狩をするため江戸へ向かう |
慶長18年 | 1613 | 9 月 関東で鷹狩をするため駿府を発つ | |
11月戸田、川越、岩槻、忍、越谷、葛西にて鷹狩 | |||
慶長19年 | 1614 | 8月 方広寺の鐘の文言にいちゃもん付ける。片桐且元を駿府に呼びつける。 | 正月 家康は土井利勝に東金御成街道の工事を命じる。 |
9月 片桐且元が和解案を提案。豊臣家中から反対を受ける。且元自身の暗殺計画を察知。 | |||
10月 且元は大阪城から退去。且元は家康に人質を差し出す。 | |||
11月18日 家康・秀忠茶臼山に布陣。大坂冬の陣始まる。 | |||
12月21日 和睦成立。 | |||
慶長20年 | 1615 | 1月 大阪城堀の埋立工事開始。 | |
元和元年 | 1615 | 4月6日 家康諸大名に豊臣方への攻撃を命令。大坂夏の陣始まる。 | |
5月8日 秀頼・淀殿自害。大坂夏の陣終わる。 | |||
5月-6月大坂落人の探索厳しく行われる | |||
7月 家康 大坂落人の中の古参浪人を赦し、大名が召し抱えることを許可 | 9 月駿府城外にて鷹狩 | ||
10月 江戸への道中、鷹狩 | |||
10月21日 戸田にて鷹狩 | |||
10月25日 川越にて鷹狩 | |||
10月晦日 川越にて鷹狩 | |||
11月下総国 御成街道完成 家康 御成街道を初めて通行し東金へ鷹狩 | |||
11月10日 岩槻、越谷にて鷹狩 | |||
12月 7日 中原にて鷹狩 | |||
12月12日 中原にて鷹狩 | |||
元和2年 | 1616 | 1月 5日 駿府近郊にて鷹狩 | |
4月17日 家康逝去。 | |||
参考:徳川家康と鷹狩年表 https://tokugawa.localinfo.jp/ |
家康はなぜこの時期に東金街道の普請を命じたのだろう?大坂の豊臣方と一戦を決意したのなら、鷹狩どころではなくなるのは分かっていたはずである。
東金街道は鷹狩のためと称して造成されたが、この一直線の道路はすばやく軍隊を行軍させるための道路として見たほうがよいと思う。鷹狩だけのためであったならば、これほどの直線道路とする必要はない。
元々の地形があり、途中丘や谷などの高低差や、田畑、人家や寺社、墓地などもあったであろう。そんなこともすべてお構いなしに強引に定規で引いたように直線道路にしてしまうというのは、将軍の権力があったとはいえ、鷹狩目的だけではないと考える。他に直線にする大きなメリットがあった。
道路を直線にすることの最大のメリットとは、目的地まで最短距離で移動できることである。なぜ最短距離で到達したいかといえば、その時に最速で到着したかったからであり、その時とは、敵が攻めてきた時である。
大坂で戦となれば、その間隙をついて北から或いは安房の里見氏が江戸に攻め上る可能性を考えたのではないか。その際江戸の幕府軍をすばやく移動させて、東北方面から房総半島のどこかに船で上陸する敵に対処するための道路であり、また安房方面からの軍勢を下総国で堰き止めるための道路であった。
上の地図は江戸初期の房総の地図に現在の地図を重ねたものである。青線で示した東金御成街道は江戸から房総半島を横切って分断するような形になっている。もし東北方面から軍勢が来た場合、九十九里の遠浅の砂浜を避けて、岩場の海岸に接岸して上陸するだろう。なぜなら、1m以下の水深になると船は進めないので、兵たちは海に飛び込んで進軍することになる。甲冑や槍、刀の装備で海中を進み上陸する間に弓矢の格好の標的となる。それゆえ九十九里浜よりも南の岩場の海岸、大原あたりに上陸するだろう。もちろんその場合は安房の里見氏との連携は前もってなされた上である。大原から上総国を北上する軍勢に対し、幕府軍は東金街道を急行することで江戸への侵入を阻むことが可能となる。
江戸を中心とした関東諸国は譜代の三河家臣たちが配置され、徳川帝国といえるような盤石の体制を作り上げていた。しかし安房の里見氏だけは外様大名であり、慶長19年(1614年)、豊臣方と一戦交えこれを滅ぼすことを決意していた家康にとって、里見氏はいざ大坂で軍事衝突があれば大坂方と呼応して、江戸を攻めるとも限らない。関ヶ原以降、東北の伊達政宗、秋田に転封された佐竹義宜らは徳川方に付いていたので、それほど警戒はしていなかったのであるが、安房の里見氏については、江戸の入り口にあり戦略上重要な場所にあった。ここが外様の領土であるということは、家康にとってどうしても不安材料でしかなかった。
大坂冬の陣の年の年頭に、御成街道工事を命じた家康の胸中は、「万が一の里見氏の謀反の芽を事前に摘んでおくに越したことはない。」というものであったろう。
直線道路を東金まで通じておけば、それだけで里見氏への牽制になるのである。いつでも幕府軍を房総半島中心部に迅速に出兵させることができるぞと。謀反の兵を挙げても、ただちに鎮圧することができると圧力をかけたのである。
実際その年慶長19年(1614年)9月9日に里見忠義に国替えの沙汰があった。そして翌月の10月10日に家康の使者が来て、伯耆(現在の島根県あたり)で知行を出すので伯耆に行くように言渡しがあった。牽制するだけでなく、実際に安房の地から遠く山陰の地へ飛ばしたのである。
この里見氏改易の事実から見ても、家康にとって東金街道が単なる鷹狩のための道ではなく、里見氏対策の布石であることが明白である。
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