17世紀から19世紀における世界的大都市である江戸は、その建設の初期から大江戸を目指したのではなく、その時々の必要を満たすために建設が行われ、時代の変化に適応する形でその規模や形態を変えて拡大していった。そして拡大の期間は家康、秀忠、家光、家綱の4代、70年に渡る大建設だった。大江戸の建設期間は大きく3つの期間に分かれる。江戸が求められた機能や規模が時代によって異なるからである。
第1期 家康の江戸入りから幕府が開かれるまで(天正18年1590から慶長8年1603)
1.平川の付け替え工事 千代田区一ツ橋から箱崎までの日本橋川の開削および道三堀の開削工事。
2.小名木川開削工事 家康は江戸と製塩産地である行徳とを直接舟運で結び、江戸の塩の安定供給の目途を立てることを最優先した。
江戸の都市計画は、小名木川・新川両運河で利根川流域と江戸とを一体化することから始められた。図のA-B-C が日本橋川、A’-Bが道三堀である。
道三堀は小名木川から隅田川を経て、江戸城直下に通じる運河として計画され実現したもので、壮大な国土計画の一部だったのである。明治42年(1909)に埋め立てられ姿を消した。
3.飲料用水の確保
家康江戸入りと共におよそ三万とも伝えられる三河家臣団が江戸城周辺に移住した。最も困ったのは、飲料水の不足であった。真っ先に飲料水確保の工事が着工された。一つは千鳥ヶ淵という人工のダム建設である。零細河川の局沢川(つぼねさわかわ)を現在の国立近代美術館前の場所で堰き止めて造られた。二つ目は北の丸公園東側、清水門外の牛が淵である。
第2期 幕府開設から豊臣家滅亡まで(慶長8年(1603年)から元和元年(1615年))
・幕府開設から3年後に始まる第1次天下普請は江戸城本丸、二の丸、北の丸の建設と並行して、日比谷入り江が埋め立てられた。上の図を見るとわかるように、本丸の石垣に必要な石材は江戸湾から日比谷入江を渡って小河川を遡って運ばれた。しかし家康が将軍となり全国の大名が家臣となったため、城下に家屋敷を与える土地が必要となった。そこで神田山を崩して日比谷入江を埋め立てる工事が始まった。
第2次天下普請は慶長18年(1613年)から起工されたが、江戸前島を城の外郭に取り込む工事だったのだが、その工事の最中に大坂冬の陣の準備のため、工事は中断され各大名はそのまま大坂城攻撃に参加した。この第2次天下普請の特徴は豊臣恩顧の大名に江戸城の石垣用石材を伊豆から運ばせたことである。大坂冬の陣・夏の陣にあたってその経済力を大いに消費させるための策略でもあった。
第3期 幕藩体制の確立期 (元和元年1615 ~万治3年1660)
・第3次天下普請 江戸城本丸の天守台、北の丸、三の丸の石垣工事、10本の舟入堀(埠頭のこと)の埋立工事の他 平川、小石川、旧石神井川の流れを神田川放水路につなげ、都心部の水害に備えた。
・第4次天下普請 (1629~1635)三代将軍家光の時代に行われた。第2次、第3次に続く石垣工事のほか、江戸前島の外堀にも城門、石垣がつくられた。東国の大名が担当する大規模な工事で、内廓の石垣と城門の桝形がほぼ完成する。石垣は伊豆から江戸まで船で石を運ぶ「寄せ方」と、堀をつくり、石垣を築く「築き方」に分かれていた。
・総仕上げとなる第5次天下普請は、東国と西国の大名が総動員され、寛永13年1636年に行われた。この普請による外廓の完成によって、外堀は「の」の字型となり、牛込あたりで神田川につながり、隅田川に通じた。隅田川から外堀までの水運が確保され商業都市としての機能が格段と向上した。
江戸は日本の政権が初めて臨海低地に都市を造った場所であり、さらに低地に留まらず海を埋め立てて都市を拡張した場所であった。なぜ臨海低地に都市を建設したのかというと、当時の最速でかつ大量輸送手段である水運の確保のためであった。
戦国時代の城は敵からの防御を最優先して造られたが、天下を制した家康は経済発展の中心地となることを最優先して江戸を設計した。そして家康の跡を継いだ歴代の将軍達も全国の大名を統制する仕組みが整っていくにつれ、軍事拠点としての江戸というよりは、行政、経済の拠点としての大都市の発展を意図して建設していったのである。
参考:ビジュアル版江戸・東京1000年地図帳 2015年 宝島社
江戸はこうして造られた 鈴木理生 2000年 筑摩書房
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