1.薬師寺縁起
習志野市大久保銀座通りに面して薬師寺があり、その境内に掲げられた縁起には「慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに加担した河内の国の郷士、市角頼母は大坂冬の陣、夏の陣に相ついで敗れ、一族郎党を率いて関東に逃れ、現在の本大久保一丁目に帰農し‥中略… 後に大久保に移住し名主職に就く。長じて現在の地に持沸の福寿薬師寺如来を祀る。長女は河内の国誉田の里に鎮座する八幡宮を分神して本大久保に祀りその後現在地に移る。」とある。
以前私はこの縁起について、大坂の陣に敗れた豊臣方の武将が関東に逃げることはあり得ないと当ブログに書き、この伝承に大いに疑問を呈していたのである。その後何度か図書館に通い文献調査の結果、この伝承に関して自分なりの見解を得た。
この市角頼母という人物の来歴に関する古文書は発見されておらず、薬師寺縁起の歴史的裏付けは現在得られていない。
2.東金御成街道普請工事の記録
「習志野市史(習志野市教育委員会編集 1995年刊)」によれば1600年初頭の習志野地域の古文書のうち、東金御成街道の造成工事に関する史料が現存しており「舟橋~東金迄新道請負通覚帳」、「従舟橋東金新道作帳」の2つの史料が紹介されている。その史料には工事を請負った村の村名、工事区間、名主名が記載されている。この史料が作成されたのは慶長19年(1614年)であるから工事が着工されたのもこの時期である。工事請負の村と名主名を抜粋してみると、
村名 | 名主 | 工事区間 |
舟橋村 | 五郎左衛門 | 丁場拾九丁 |
谷戸埼村(谷津、鷺沼) | 勘解由 | 六丁 |
飯山満村 | 藤左衛門 | 廿五間田 |
藤崎村 | 次郎右衛門 | 廿間田 |
宮山村(三山) | 惣左衛門 | 廿間田 |
瀧の井 | 藤兵衛 | 貮十間 |
高根村 | 藤左衛門 | 廿間山也 |
大穴古和釜村 | 隼人 | 拾五町 |
坪井村 | 五郎左衛門 | 壱丁 |
久々田村 | 勘右衛門 | 壱町五間 |
馬加村(幕張) | 藤左衛門 | 十貮丁 |
竹いし村(武石) | 玄番 | 四丁半 |
実籾村 | 重郎左衛門 | 廿間 |
御成街道に沿った村名が連なるが、藤崎、宮山(現在の三山)、実籾などの地名は見えても大久保新田の名はない。飯山満や高根など街道からは離れた村からも工事従事者が動員されているが、街道が通過する大久保新田がないということは、この慶長19年の時点で大久保新田という地名が存在していないということである。つまり集落がまだないということであり、名主となったという市角頼母の名も記載がない。以上の事実は縁起に記述された、「大阪の陣の後敗走し下総の大久保の地で帰農した」こととは相容れないのである。
3.大久保新田開発の謎
「習志野市史」より転載する。『大久保新田が歴史史料に登場するのは、延宝5年(1677年)の「巳年大久保新田之内実籾村御年貢可納割付之事」という古文書である。また翌々年には「大久保新田内実籾村御検地帳」が作成されており、大久保新田が開発・成立したのは延宝5年頃であったことが分かる。また、天和元年(1681年)「永代売渡し申御新畑之事」(鴨田家文書)や正徳5年(1715年)「二宮神社御神輿御神鏡裏面銘文」によると、市角頼母のほか、大久保新田の疋田利兵衛、疋田七右衛門、池上三郎兵衛、長田甚左衛門の名前が見え、ほかの農民と違い苗字が記されていることから、もと武士であった人々であろう。当時は浪人であった人々も加わって大久保新田の開発がなされたものと推定される。』以上習志野市史より転載。
関ヶ原の戦が1600年、大坂夏の陣が1614年であり、大久保新田の名が史料に登場する1677年までには77年から63年の時が経っている。仮に市角頼母が17歳で関ヶ原に参陣したとしても、1677年には94歳である。戦国期の男性の平均寿命を考えれば、生きて大久保新田開発に携わることは不可能である。「大久保新田内実籾村御検地帳」、「永代売渡し申御新畑之事」という古文書が事実を伝えているとすると、市角頼母という人物が天和元年(1681年)頃に存在したことは事実であろう。しかし大久保新田開発に携わったのは、大坂の陣よりずっと60年以上後のことである。
総合すると市角頼母の薬師寺縁起はご先祖様をより権威付けたいと考えた後世の創作ではないか?特に、関ヶ原、大坂の陣の参戦は「話を盛った」と考えることが妥当だろう。
では、延宝5年頃とはどんな時代だったのだろうか。延宝元年(1673)および同6年3月から翌7年8月にかけて畿内の幕領において延宝検地が実施された。直接の動機は、寛文10年ごろから延宝初年にかけての洪水・気候不順などによる慢性的な不作、延宝3年には全国的飢饉と化したという事情による。慶長検地と比べると、粗放であった検地基準が是正され、農民の負担の不均衡がかなり調整されている点が特色である。
慢性的な不作に対処するため、幕府が新田開発を奨励したことは想像できる。この時期に大久保新田が開発されたことと一致する。では市角頼母一族はどこからやってきたのか?大坂夏の陣が終わってすでに63年の月日が経ち、戦国の世は幕府が統治する世に代わっていた。戦で必要とされた足軽・雑兵は帰農し小作人になっていたことだろう。市角一族が河内の誉田八幡宮を分祀したことから、河内の農民であったことは事実であろう。
大久保新田の開発者として名前が残っている市角頼母は、戦国期に侍であった市角某の子供か孫であって、延宝2年~3年の飢饉に際し故郷の河内を捨てて、関東での新田開発参加を目指して移住してきて、この大久保の地に根付いたということだろう。
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