習志野市大久保地区の歴史

1.戦国時代から江戸時代

豊臣家臣の武将であった市角頼母(いちずみたのも)は大坂夏の陣の敗戦により、一族郎党関東まで敗走した。その後下総の国大久保に土着し、当時荒地であった大久保を開墾し豪農となり、この地の名主となったとの伝承がある。そして頼母が開墾した田畑は大久保新田と呼ばれた。

しかしこの伝承には謎がある。そもそも関東は小田原攻めで北条氏を倒した豊臣秀吉が恩賞として家康に与えた領土であり、家康がその三河家臣団を城持ち大名にして分け与えた土地である。そのような背景があるにもかかわらず、大坂夏の陣で豊臣側の武将であった頼母が敗走先に選ぶだろうか?戦争の敗者が勝者の土地に流れついて住み着くだろうか?

 一説によると市角頼母は豊臣家中に潜入していた徳川側の間者(スパイ)であり、その恩賞として関東つまり徳川領内に土地をもらったのだが、間者であったことは秘匿されたという。市角頼母の伝承の信ぴょう性はさておき、江戸時代において大久保新田は、江戸に近いという理由で幕府直轄領であった。 また、幕府直営の牧場である小金牧が、現在の地名でいうと北は野田から始まり、流山、柏、松戸、鎌ヶ谷、船橋と南に下る広大な領域にまたがり経営されていた。

そもそも下総国は「水無しの国、石無しの国」と 称されたように、とくに下総台地上は取水が難しく、農地には不向きであった。それゆえ、手つかずの原野が広がっており、農業用ではなく牧畜用に土地が活用されたわけである。

2.明治維新後から太平洋戦争終結まで

1867年の明治維新により幕府直轄領は新政府の直轄領となる。維新後の1873年(明治6年)小金牧の大和田原(現・千葉県船橋市習志野台から高根台周辺)で明治天皇御覧の下で陸軍による演習が行われた。後に明治天皇によって、その地は「習志野原」と命名され、陸軍の演習場となった。

1902年(明治35年)騎兵第1旅団を大久保新田に設営。政府直轄の農地であった大久保新田は陸軍用地としてたやすく接収されたのだろう。特に反対の声は上がらなかったようだ。 もともと津田沼には陸軍の鉄道部隊が置かれ、津田沼駅周辺は軍関係者による一大消費地となり商業地として繁栄をしていた。騎兵旅団が大久保新田にできれば同様に地元の経済にとって良いことと歓迎されたのかもしれない。

この旅団設置には日本騎兵の父といわれる秋山好古の経歴が大きく関連している。1887年フランス サン・シール陸軍士官学校に留学した秋山好古は、騎兵戦術を習得し1891年に帰国した。翌年陸軍士官学校馬術教官に就任し、日本の騎兵育成に着手した。その後陸軍の騎兵部門で順調に出世を重ね、1903年誕生間もない騎兵第1旅団に陸軍少将として着任し、翌年勃発した日露戦争に騎兵第1旅団長として参戦した。

秋山旅団長の指揮で中国大陸において大いなる戦果を収め、日本の騎兵部隊の優秀さは世界的に広まった。騎兵第1旅団は騎兵第13連隊、第14連隊で編成され、騎兵第2旅団は第15連隊、第16連隊から編成され、それぞれ現在の以下の場所に駐屯した。

騎兵第13連隊→東邦大学

騎兵第14連隊→日本大学

騎兵第15連隊→東邦中学校高等学校

騎兵第16連隊→大久保住宅

1914年(大正3年)に始まった第一次大戦の時期、世界的には自動車・装甲車・戦車に転換の動きが急速に進んでいった。騎兵の軍事上の必要性が薄くなると、1933年(昭和8年)3月に騎兵学校条令が改正され、無線教習隊の新設、騎兵科装甲自動車隊要員の教育等が行われた。その後、1932年12月より、騎兵16連隊の敷地は陸軍習志野学校の敷地として編入された。1937年(昭和12年)には装甲車隊が戦車隊と改称され、1941年(昭和15年)には教導隊の編成が乗馬隊・自動車隊・装甲車隊・戦車隊・速射砲隊・通信隊となり、騎兵の比重がごく小さなものとなったことを示している。

1942年(昭和17年)10月 旅団廃止。各部隊は戦車第3師団の部隊に改編される。戦車第3師団は(昭和17年)6月 駐蒙の騎兵集団を改編して中国戦線で編成された。北支那方面軍の駐蒙軍に属した。

こうして騎兵第1旅団、第2旅団は戦車師団に吸収される形で消滅した。習志野の大久保地区の騎兵連隊の駐屯地は、機械部隊化と日中戦争拡大による部隊の大陸への投入と並行して、入れ替わるように陸軍習志野学校としての整備が進んでいた。

3.戦後

 習志野市立第二中学校の沿革を以下に示す。

1947年5月 津田沼町立津田沼中学校として創立(現習志野市立津田沼小学校内)

1947年5月津田沼町大久保旧陸軍連隊痕(泉町3丁目)に新校舎として移転

1948年4月 大久保旧陸軍部隊の戦車格納庫(泉町3丁目)を改造、専用校舎落成。

1958年11月 現在地にある新校舎(円形校舎)に移転

 *ウィキペディア(Wikipedia)「習志野市立第二中学校」より抜粋

つまり、習志野第2中学は当初泉町3丁目に所在したということだ。 泉町3丁目とは騎兵第16連隊のち戦車連隊が駐屯した場所であり、戦後は大蔵省関東財務局管轄の国家公務員住宅が建設された場所である。ちなみに昭和41年から昭和48年まで私が住んでいた地域でもある。旧陸軍の戦車格納庫とはどこにあったのだろうか?

泉町3丁目にかつて存在した旧陸軍習志野学校の建物配置図を示す。陸軍習志野学校とは1932年以降、騎兵連隊が装甲車隊、戦車隊に置き換わり中国大陸に投入されていった時期、この習志野においてジュネーブ議定書が禁じた毒ガス兵器の研究開発と毒ガス戦の研究訓練のために設立の趣意をあいまいにして設立された組織であった。図中に「第一車廠及び第二中隊砲廠」という建物がある。赤丸で示した。廠というのは元の意味は厩(うまや)であるが、旧日本軍では工廠という言葉が使われていて、軍需品の製造工場もしくは修理工場を指す言葉であった。この図中での車廠、砲廠というのは戦車や機関銃の修理工場の意味ではないだろうか。

図1

図1中の赤〇には「第一車廠及び第二中隊砲廠」とある。 戦車の格納庫だろうか?
 出典:習志野演習場周辺住民説明会(第1回) 2005年5月 <環境省・防衛庁> 配布資料より

4.円形校舎に移転する以前の第二中学校はどこに所在したか

この問いを考える上での前提条件は以下のとおりである。

①    泉町3丁目とは、昭和40年当時関東財務局所管の国家公務員宿舎であった。

②    この公務員宿舎は2階建ての木造宿舎と4階建ての鉄筋コンクリート宿舎が混在していた。

③    鉄筋コンクリート造りの宿舎は昭和39年度完成の建物であった。

④    木造宿舎が戦後昭和20年代の建築であるとすれば、昭和39年に木造宿舎の一部を解体して新築することは、建物の耐用年数を重視する関東財務局の方針としてあり得ない。

⑤ 木造宿舎とコンクリート宿舎が混在しているということは、陸軍習志野学校の建物を解体して木造宿舎を建てるときに、一部解体できない軍の建物があったということ。それは使用中の建屋であったからである。

上記の前提の基に私が推測するのは、昭和39年に新築された鉄筋コンクリート宿舎の場所に以前存在していたのは、戦後建てられた宿舎ではなく戦前からあった軍関係の建屋であった。つまり旧陸軍の戦車格納庫を改造した習志野第2中学があったのは、私が住んでいた4階建ての鉄筋コンクリート造の宿舎の場所ではなかったか?

習志野第二中学校 1948年4月大久保旧陸軍部隊の戦車格納庫(泉町3丁目)を改造、専用校舎落成 (出典:習志野市HPより)
1960年頃の空中写真 出典:国土地理院ウェブサイト https://maps.gsi.go.jp/help/intro/looklist/2-nendai.html

 上の1960年頃の空中写真と図1の習志野学校配置を比較すると、上の空中写真の✚と図1の赤い〇が同一の建物と思われる。これが旧二中として使用されていた建物ではないだろうか。習志野市教育百年史(昭和51年発行)によれば、「戦後六・三制の実施に伴い新制中学は誕生したのであるが、いつまでも小学校に同居しているわけにもいかず、既設の軍施設を利用したくおそまきながら県知事にも働きかけ、各大学(東邦大、千葉医大)の未利用建物の部分に割り込みを図った。その結果旧陸軍習志野学校の自動車倉庫を改築して『津田沼町立中学校』を昭和23年に開校した。」とある。ようやく校舎のめどがたち開校したものの、この場所(現泉町3丁目)は谷津、鷺沼方面の生徒の通学には不便だった。「当時の津田沼町長は市民の強い要望に応え、白羽の矢がたったのは旧鉄道第二連隊の被服倉庫の建物だった。この倉庫を改装して津田沼第一中学校とし、大久保校舎を津田沼第二中学校としたのであった。」昭和29年(1954年)習志野市誕生、習志野市立第二中学校となった。

1970年頃の泉町3丁目 出典:習志野市HPより

5.大久保商店街

 1901 年、習志野原から転営した第一旅団(騎兵第13、14 連隊)と第二旅団(騎兵第15、16 連隊)が大久保に設置される。これに伴い、大久保や近隣の農家が商売を始めたこと、別地域で商売をしていた者が大久保に移り住んだことで、旅団の正門を中心に商店が立ち並ぶようになる。1905年日露戦争が終了して軍隊が戻ってくると、出征した兵士の中には故郷に帰らずに津田沼町や周辺に定着する者もいた。中には商売を始める者もいた。張替商店の創設者張替一郎は茨城出身で報奨金200円を元手に軍隊に酒などを販売する店を開いたという。このような例は他にものあったと考えられ町内の農家からの転業、他の地域からの進出により大久保周辺には多くの商家が生まれていった。明治27年に総武線が開設した。津田沼駅には近隣町村から乗合馬車が通っていた。乗合馬車というのは現在の観光地などにある10人ほど乗れる馬車で、津田沼駅から東金街道を通って松山街道に入ったところに松翠館という旅館があった。大久保で商店が集中していたのは東金街道、連隊前通り、松山通りである。松山通りは、京成大久保駅が出来るまでは輸送「駅」として機能し、津田沼駅と大久保の間に人力車や乗合馬車が走っていた。松山街道の中ほどに馬車の待合場所があったとおもわれる。

 

 上の図は松井天山が描いた昭和3年の大久保界隈である。駅や主な建築物、商店など一軒一軒の名称が書き込んでおり、昔の街並みを知る唯一の資料となっており、現在と比べると非常に興味深い資料である。この図は鳥観図なのでかなりデフォルメされている。実際には御成街道は直線道路であるし、「大久保」と書かれている場所は大久保十字路で御成街道と直交している道は大久保銀座通りであるからこれも実際には駅前から司令部に向かって南北にまっすぐ伸びた道路である。要するに地形の正確な形よりも、商店や施設の名前を書き入れたかった故のデフォルメなのである。図中に青の枠で囲ったのは「市角邸宅」と説明がつけられた一角で、東金御成街道沿いに建つ大きな屋敷が描かれている。ここが市角家の上屋敷で、薬師堂のあるあたりが下屋敷であったと思われる。

多数の馬が繋がれた様子

 上の図は鳥観図における松翠館の隣の敷地を拡大したものである。大きな松の木の下にもごもごした物体が多数描かれているが、これは繋がれた馬達ではないか?だとすればこの場所は、馬車の停車場であり、馬を休憩させる「駅」である。「渡辺倉庫」と説明があるが、馬車で荷物も運ぶので一時的に荷物を保管する倉庫は必要だったろう。

1926 年、京成大久保駅の完成により大久保の様子は大きく変化する。連隊と京成大久保駅が一直線になったことで、店舗はアクセスの良い大久保通りへ移転し、徐々に松山通りは寂れていった。*1, *2

*1 習志野市役所企画調整室広報課 『<解説資料集> わたしたちの郷土習志野』、1978年
*2 習志野市教育委員会 『新版 習志野――その今と昔』、1990年

 現在の大久保商店街の中程に間口は狭いが薬師寺の参道が面している。この薬師寺の境内掲示による縁起は、「市角頼母は敗戦し大坂冬の陣(慶長十九年十月・一六一四)、夏の陣(元和元年四月・一六一五)に相次いで敗れ、一族郎党を率いて関東に逃れ當地、現在の本大久保一丁目(現杉の子幼稚園付近)に帰農し豪勢を占めた。後大久保(江戸時代は大窪といい小金原弁天原)に移住名主職に就く。長子をして下屋敷であった此地(大久保一丁目)に持佛の福壽薬師如来を奉祀した。」とある。薬師寺は大久保新田の開祖である市角頼母の長男が建立した寺である。この一帯は代々市角家の敷地であったのだろうか。

現在の大久保界隈地図に 御成街道(青い道路)、かつての市角家上屋敷、市角家下屋敷を図示した(紺〇)。誉田八幡神社(赤〇)も御成街道に面している。薬師堂(赤〇)は銀座通りに面している。

6.御成街道と市角一族

 私は大久保の歴史を調べるうちに、大坂夏の陣から敗走しこの地に帰農した市角頼母一族に強く惹かれた。市角一族は最初本大久保に居を定め、開墾作業を開始したが、それと同時期に家康の命により土井利勝が東金御成街道の工事を指揮し開通させた。本大久保3丁目には市角家が勧進した誉田八幡神社の痕跡が富士見公園の片隅に小さな祠として残っている。薬師寺の縁起に「市角頼母の長女は、河内の國誉田の里に鎮座する八幡宮を分神して本大久保の地に祀りその後現在地に移す」との記載がある。つまり、市角頼母一族が関西から移住して住着いたのは本大久保の地であった。

 なぜ本大久保から御成街道沿いに移ったのだろうか?自分たちの住居を移すだけでなく、八幡宮も移したのである。そもそも豊臣側の関西人がなぜ徳川の本拠地である関東を目指したのか?まったく腑に落ちないのである。この問題を数日間考えた末に私が辿り着いた考え、というより根拠のない単なる妄想に過ぎないが、次のような仮説である。

 豊臣秀吉の重臣のうちで片桐且元(かつもと)という武将がいる。且元は豊臣家の直参家臣で関ヶ原以降は豊臣家の家老であり、長女を家康に人質として差し出して、豊臣家と徳川家の間の調整に奔走した人物である。

 1601年頃、且元は寺社奉行として多数の寺院の復興事業に取り組んだ。中でも河内国古市郡誉田村(現大阪府羽曳野市)の誉田八幡神社に関しては、慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して本殿・中門・拝殿などの再建を行っている。しかし、拝殿の仕上げ中に大坂の陣及び豊臣氏の滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなった。江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。

 片桐且元は慶弔19年(1614年)淀君側近たちから家康に内通していると嫌疑を懸けられ、暗殺されそうになる。やむなく且元は一族・家臣4千人を引き連れて大阪城を出て徳川方に就く。翌年の大坂夏の陣では徳川方として大阪城攻撃に参加した。大坂夏の陣が終わったわずか20日後に京都で息を引き取った。60歳であった。

 私の妄想は、市角頼母はこの片桐且元配下の武士であったというものである。この片桐且元家来説を採用すると、次の点が説明できる。

  • 大坂夏の陣の戦後、豊臣側の武将は厳しく成敗された。ほとんどが打ち首、切腹になったといわれる。その中で頼母は関東に敗走して生きながらえ、帰農して名主まで務めたということが矛盾している。しかし、片桐且元の家臣ならば、最後は徳川方に寝返ったので、戦功により関東の地を与えられたのもうなずける。
  • 市角一族が大久保の地に誉田八幡神社を勧進したのも、頼母が且元の部下として摂津国にて誉田八幡神社の普請工事に携わった経験があったからではないか。
  • 大坂夏の陣は1615年5月に終結しているが、御成街道は1614年着工で翌年1615年11月に完成した。つまり市角一族は御成街道工事に参加することが可能であった。

 市角一族は自ら敗走先に下総の国を選んだのではなく、徳川幕府に御成街道の普請工事への従事を命ぜられたのではないか。当時久々田村、谷津村といった集落がある地域に比べ、集落もなく荒地であった大久保地区は、農家からの工事労働者が出ない土地であったがゆえに、道路普請は未着工であった。そこで大坂の陣後浪人となった市角一族を工事担当として大久保地区に移住させ、道路工事が完成したあかつきには、その荒地を開墾してなりわいとしてよいとお墨付きを与えたのであろう。

 ただし、この大久保地区には川がないのである。用水の取得が困難で農業には不向きな土地であった。そこで、市角一族は当初湧き水か何かで生活用水が確保できた本大久保に住み着いたのだが、御成街道沿いに転居した。これはおそらく街道の人々の行き来が盛んになるにつれ、街道沿いでなければできない生業に就いたと推測する。

 それは馬に関することではないか? 街道沿いに馬の中継地を設けて、駅を経営したのではないかと推測している。時代は下って明治後期、御成街道沿いの市角家上屋敷の近くに松山通りという商家が集まった道があって、その道路には後に旅籠や馬の休憩所があったことが判っている。この馬の中継所も市角家が経営していたのではないだろうか?農業用水も多くは取得できず野菜畑を細々とするしかない中で、こうした街道沿いならではの仕事で収入を確保してきたと推測する。この地域に川がないゆえに農業の収穫も少なく、したがって隣の実籾村に比べて集落の中の戸数が少なく規模が小さかったことは、明治8年陸軍測量部作成の地図からも見てとれる。明治8年といえば維新から8年しか経ておらず、ほぼ江戸時代のままの姿といってよいだろう。

明治8年 陸軍測量部作成大久保新田付近

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