テレビドラマで東京の下町の職人がべらんめい調の江戸弁をまくし立てるのを聞いているうちに、この言葉は一体どこで生まれたのだろうと気になった。私も私の父も東京生まれなので、幼少期から家の中では東京言葉、標準語が話されていた。一方母の実家があったのは千葉市の中心部に程近い国道14号線に面した住宅地であったが、当時は国道14号線の向こうは海であった。昭和40年代に埋め立てられた結果、今は海岸線から10キロほど内陸である。母の実家があるあたりは昭和42年ころまでは海岸線沿いの漁師町であった。東京湾で浅利を採り海苔の養殖を主とする漁師たちが多かった。祖母は私には標準語で話かけたが、買い物に出かけた折近所の主婦たちと出くわした途端に始める世間話の内容が私にはさっぱり聞き取れなかった。
後年大学に進学し水戸に下宿したのだが、ある日曜日の朝近所の大人が言い争っているような声で目が覚めた。何事かと窓から外を覗き見たが、道端でのんびりした顔で話をしているような情景だったので、喧嘩ではないと分かったが、声だけでは喧嘩をしているように聞こえた。
大学の友人たちの出身は茨城県の他に福島県、栃木県が多かったが、北関東の訛りというか話し方は似たところがあった。あまり抑揚がなく語尾がちょっとあがって終わる話し方で、標準語からみると質問文、疑問文のように⤴となる。この語尾が上がるところが喧嘩しているような印象を与えるのだろう。つまり北関東は大体似た話し方であるが、東京は違うということになる。標準語で育った私にはそれまで関東は標準語を話すものだと思っていたが、そうではなく関東の中で東京もしくは東京に通勤している人々が住む圏内だけが異なる言葉を話すのである。
江戸は家康が1590年に入国して、その大湿地帯の乾燥化工事に着手したのだが、それ以前は寒村に過ぎなかった。徳川家臣団は約三万人、家族を入れると数万人の三河者が住み始めたのであるから、江戸城下は三河言葉で溢れたことだろう。関ヶ原の戦いの3年後1603年に征夷大将軍となった家康は、江戸城の普請を開始する。堀を廻らせ石垣を積むそれを全国の大名に割り当てた。天下普請である。工事を割り当てられた各地の大名たちは国元から土木工事や建築工事の人足を江戸に送り込んだ。
この天下普請について文献「大江戸の正体」*1によれば、「天下普請は、…各大名が苛酷な割合で動員した人足は、大部分はかつての傭兵である失業武士や逃亡農民たちであった。…天下普請は膨大な労務者の発生を促すとともに、増加しすぎた傭兵の転用手段にもなったのである。」彼らは城の普請だけでなく、自分たちの住む住居や住居を建てるための土地の造成から始めなければならなかったことだろう。それぞれの国元から来た職人同士で仕事するうちは、故郷の言葉でよかったが、一歩町へ出れば、全く素性の違う他国者同士が意志疎通をしなければならない。江戸初期に江戸に住み着いた庶民、つまり武家以外の土木作業員、建築作業員は日本全国から来た人々であり、話ことばもそれぞれの出身国由来の方言だった。私の推測では彼らがお互いに意志疎通するために、当時の武士階級が専ら使用していた三河弁を手本としていった。それが年月とともに江戸独自の言葉に変化していった。だから江戸言葉と周辺の関東の言葉はまるで違っているのではないだろうか。
文献「東京語のゆくえ―江戸語から東京語、東京語からスタンダード日本語へ」*2によれば、『徳川家臣団は三河、遠江、駿河の東海地方出身者で占められていた。東海地方は京都との関係が文化的にもことばの上でも深かった。その武士の集団のあとに上方の商人が江戸に進出をしてきた。上方の言葉が江戸に入ってきた。こうして関東の真ん中に上方の影響を受けた言語が成立した。これが「江戸言葉」だろう。』ということが書いてある。
文献2の説明には、家康入府後の肉体労働者階級の存在に触れられておらず、すぐに商人の話になっている。江戸の下町に住み始めた元傭兵集団の話ことばの起源の説明が不十分だと思う。関東の言葉とはまるで異質であるが、関西弁とも違う江戸言葉成立の明確な説明になっていない。まだ解明されていない分野なのであろうか。三河出身者が大多数を占めた江戸初期から世代が代わる頃には、江戸言葉における三河弁の影響がなくなったようである。日本各地から大名とその家臣、労働者、商人達が大量に流入することによって、当初の三河家臣団の数十倍も人口が膨れ上がった結果、三河弁が駆逐されたのだろうか?その辺のことははっきりと解明されていないようである。今後もさらなる研究成果を探してみるつもりだ。
*1;鈴木理生、三省堂、2004年 *2;國學院大學出版部、東京堂出版、1996年
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