東京都北区王子駅をご存じだろうか。この駅は飛鳥山の北東に位置していて、本郷通りと交差している。交差というのは本郷通りが王子駅の下をくぐり抜けているのである。なぜこのような位置に駅と道路が存在しているかというと、本郷通りが飛鳥山と石神井川に挟まれて作られているからである。
地図で122と表示されているのが本郷通りである。飛鳥山の南の山裾に沿って右下から左上方に直進し、石神井川にぶつかった図の赤いマーカの地点、音無橋で向きを変え、今度は石神井川に沿って北東に進み、王子駅の下をかいくぐって抜けていく。駅のプラットホームにいる人は、自分の股下を自動車が流れていくのを見ることになる。この本郷通りは音無橋から駅に向かっては下り坂になっている。だから王子駅付近では、プラットホームより下の位置で交差するのである。つまり線路をはさんだ土地には段差がある。この京浜東北線を境にした段差は、実は上野から赤羽までずっと続いている段差であり、日暮里断崖と呼ばれる崖である。この断崖は縄文時代の海岸線であり、京浜東北線の北東部の平坦な地域はかつて海であった場所である。日暮里断崖は王子でいったん途切れており、東十条で再び崖が現れる。王子駅を過ぎたところで途切れる理由は、石神井川である。王子は石神井川が削った谷なのである。
この石神井川であるが、小金井カントリークラブの敷地内の湧き水を源流とし、小平市、西東京市内を流れるあたりは、ちょろちょろとした小河川であり練馬区に入るまでは伏流水や暗渠である。練馬区に入ると、武蔵関公園の富士見池、石神井公園の三宝寺池と石神井池、豊島園池などの湧水や河床からの湧水が合わさるため、明確に視認される河川となる。城北中央公園の途中で板橋区に入り川越街道(国道254号)・旧川越街道・東武東上線・中山道を横断し、JR埼京線 を潜って北区に入る。石神井川は現在の板橋区加賀付近から谷の底を深くして王子へ続く蛇行した渓流となっていた。この渓谷は「石神井渓谷」「滝野川渓谷」「音無渓谷」などとよばれていた。滝野川の町境の北側が石神井川上から一部半円状に外れる部分はかつての流路で、現在「音無もみじ緑地公園」になっており、江戸名所図会『松橋弁財天窟 石神井川』に描かれる江戸の名所だった。現在は川岸は整備されてかつての渓谷の風情はない。
江戸時代に現在の音無橋付近に石積みの堰堤が築かれ、石樋を落ちる石神井川本流は王子の大滝などと呼ばれ、王子七滝とならぶ名所として絵図にも書かれた。
ところで、飛鳥山はどうやってできたのだろうか? 縄文時代の海岸線である日暮里断崖であれば単に台地であるべきなのだが、こんもりとした山になっている。一番自然なのは、飛鳥山の南西方向の山裾にあたる部分、今は本郷通りになっている場所はかつて川であって、川の浸食により台地が削られたと考えることである。つまり、太古の時代は石神井川は図の音無橋のあたりから進路を南西方向に変えて流れていたということになる。
そう思って北区の歴史資料や地形関連文献などを調べたところ次のような記述を発見した。第73回地学団体研究会総会の参考資料「シリーズ-4 谷田川はかつては石神井川の下流の川だった — 谷根千界隈と清の墓」より引用する。
「武蔵野台地を王子付近から上野・不忍池に向かって南に谷を刻む谷田川(藍染川)の西側の台地が本郷台で養源寺はこの台地の上にある。谷田川の東側台地は上野台で、谷あいは谷中になる。上野台には道灌山、上野の山がある。谷田川の谷は王子付近で、武蔵野台地を西から東に向かって刻む石神井川の谷に連続するように見えるのに、石神井川はここで急に流路を変えて低地に下り、隅田川に流れ込むことから、『河川争奪』が王子付近でおこり、この流れになったといわれる。…中略…谷田川の下流にあたる沖積地の地下の埋没谷が深く刻まれ、歴史時代以前に石神井川が谷田川に流れていた(中山ほか1976)とする説や、王子付近の掘削データから縄文期に低地側から海食が進み台地幅が狭くなり、石神井川の増水時に台地を突き崩したという説(中野1994)がある。」
上記の文章で分かるように、かつて縄文時代以前には石神井川は王子付近で向きを上野方面に変えて流れていたのが、縄文期に隅田川方面に進路を変えたというのである。この縄文時代以前の石神井川に削られてできたのが飛鳥山である。
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