原題は「The Shawshank Redemption ショーシャンクの贖罪」である。この題名ではなんのことか分からない。キリスト教圏では、贖罪とは神に対して人間が犯した罪が償われて、両者の敵対関係が和解されることを意味するようになった。この場合に、自分の力では償いをすることができない人間にかわって、犠牲(いけにえ)が捧(ささ)げられ、その代価によって失われたものがふたたび買い戻されるという意味で贖(あがな)いといわれた。主人公が無実の罪で何十年も刑務所に収監されることが何かの犠牲だという意味合いを含んだタイトルなのだが、キリスト教の教義の背景がない日本においてこのような概念を映画の題名に持たせるのは無理なので、宗教色の一切ない邦題になったのだろう。空がどうかしたという映画ではないのだが、題名にこの映画の主旨を盛り込むのはあきらめざるを得なかったと思われる。
有能な銀行員であるアンディは、不倫をした妻を殺害した罪で無期懲役の刑で刑務所に収監される。そこで出会った囚人たちの中で次第に信頼を得て、そのうちに銀行員としての能力を発揮して看守の節税対策のアドバイスをしたところ好評を得た。ついには刑務所長にその脱税の手伝いをさせられることになった。アンディはこの悪党所長に一矢報いるために、「ランドール・スティーブンス」という架空の人物を作り出し、脱税で得た多額の不正蓄財を見事に隠蔽していた。20年間の間にアンディは刑務所において、囚人の処遇改善につながるいくつもの提案を行い、あきらめずに地道に取り組むうちに改善を勝ち取っていく。囚人たちの中では大きな信頼を寄せられる存在になっていった。そしてある日独房の壁に貼られたリタ・ヘイワースのポスターを隠れ蓑にした脱獄計画を実行し、刑務所から脱走しスティーブンスに成りすまして、所長が隠蔽した莫大な財産をまんまと横取りすることに成功する。
逆境でも諦めずに努力を続け、仲間をつくり、信頼を得て少しずつ前進する姿勢に共感する。この映画の観客はアンディに自分を投影し、一緒になって刑務所の中で生きるのだ。そしてどんでん返しの脱獄とその劇的な成功の爽快感に酔いしれるのである。
ところで冒頭の原題の話であるが、アンディは何の罪を償ったのだろうか? アンディが自分の妻を殺していないということは、本当の殺人犯と同じ刑務所に収監中に他人の妻殺しの告白を聞いた青年が、ショーシャンク刑務所に転獄されてきて明らかになったのだった。自分の妻を殺していないにも関わらず、罪を償わなくてはならなかった。キリスト教の根底にある原罪のようなものを背負ったのだろうか?贖罪とはキリスト教において,人々の罪をあがない,人類を救うために,イエス-キリストが十字架にかかったとする教義である。
キリスト教、主にカトリック教会における教義に「七つの大罪」がある。「傲慢・強欲・嫉妬・憤怒・色欲・暴食・怠惰」の七つの罪が、伝統的に罪の源とされている。アンディは妻が不倫をしていてその現場の側で殺意を持って待機するところまで行ったが、実際には犯行におよばなかった。不倫をしていた妻は色欲の罪、アンディを利用して私腹を肥やす所長は強欲の罪、一瞬であっても妻への殺意を抱いたアンディは嫉妬の罪、等々人間は誰しも罪を犯しており、アンディはそれらの罪をあがなうためにイエスキリストになぞらえられたキャラクターとして描かれる。銀行の副頭取のアンディは無実でありながら冤罪で終身刑を言い渡され、刑務所に服役するというこのうえない人生の転落を味わい、その刑務所のなかで囚人たちのためにさまざまな待遇改善を勝ち取り、それが囚人たちの信頼を得てゆく。これがどん底にありながら救済に身をささげるイエスキリストを投影しているのである。我々日本人にはわかりにくい世界感ではある。それが判らなくともこの映画の真価は十分に伝わるし、感動できる映画である。
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