関東地方の地形について勉強したこと

竹村公太郎著「日本史の謎は『地形』で解ける」ー第1章関ヶ原勝利後、なぜ家康はすぐに江戸に戻ったかー
 上記書籍から引用する。『縄文前期、約6000年前には海面が5mほど高く、海は関東地方の奥深くまで入り込んでいた。そのコンピュータシミュレーション図が掲載され、東京の東半分から埼玉県にかけての関東南部が海になっている。その海は現在の久喜市の旧栗橋町まで北上していた。
 しかも家康が江戸に入ったときは海面が下がっていて、その海が引いた跡に、利根川が江戸湾に向かって流れ込んでいた。その利根川の運ぶ土砂が堆積して関東平野が顔を表していたが、そこはひとたび雨が降れば水は行き場を失い、何日も何か月も浸水したままの湿地帯であった。』


 私は以前から京浜東北線に乗車して通勤するうちに、日暮里から赤羽に続く断崖が縄文時代の海岸線であるという実感があったが、この竹村氏の著書の記載でかつての海岸線と現在の地形の成り立ちが裏付けられた。自分が感じていた地形に対する疑問が解けたことの喜びに満たされた。

 埼玉県東部は湿地帯で利根川が流れ込んでいたのだ。自分が眺めていた景色に歴史的背景があったこと。その歴史の中で自分たちの先人たちが知恵を出して、力を合わせて大地と戦ってきた結果が現在の景色であったこと。かつての湿地帯でどんなドラマが繰り広げられてきたのか?南関東の歴史に目を向けてみたい。

1.頼朝挙兵後の安房から武蔵を経て、鎌倉入りするルートはどこを通ったのか?

2.江戸が湿地帯であった時代、交通の要所はどこだったのか?

3.家康が京都ではなく、江戸に幕府を開いた理由は何か?

1.の頼朝挙兵ルートは別項「頼朝は大湿地帯だった武蔵野国東部をどう行軍したか」において考察した。2.の交通の要所については、竹村公太郎氏が著書「日本の都市誕生の謎 5なぜ頼朝は辺境の地・鎌倉に?」で明らかにしている。それには、中世日本において西日本から関東を通り東北へ行くルートは4つあったと指摘している。

①中山道の長野から群馬へ出て、桐生、足利そして栃木を経由して東北に向かうルート。

②甲府盆地から相模川を下って平塚に出て、鎌倉を通り三浦半島の横須賀から船で、房総半島に渡り、茨城、東北に向かうルート。

③箱根を越えて小田原に出て、鎌倉、横須賀から船でその後は②と同じ房総半島経由で東北へ向かうルート。

④西から太平洋を航海して来た船が、相模湾を越えて三浦半島で一旦停泊し、房総半島に渡っていくルート。

以上のルートを見ると、②から④は三浦半島と房総半島を経由しいずれも船を使うルートであることが分かる。三浦半島の付け根にある鎌倉と房総半島が要所である。これはまさしく頼朝の挙兵ルートであった。頼朝が石橋山の合戦で敗れた後、船で三浦半島から安房に向かったのは、追い詰められて仕方なくではなく、普段から行き来している慣れた移動手段、移動先であったと推測できる。

3.の家康が京都ではなく江戸を選んだ理由であるが、歴史研究家の鈴木理生氏によれば、それは江戸の地形からくる湊としての優位性、当時の最速物流手段である海運のネットワークを最大限生かし得る地勢的優位性ゆえである。

 

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