1973年発表されたひこうき雲によって、松任谷由美(当時は荒井由実、以下ユーミン)はその才能の片りんを見せてデビューしたように記憶しているが、私がユーミンの楽曲に親しむようになったのは、アルバム「コバルトアワー」が発売されてまもなく経った1976年、私が大学に入学した年からである。当時は「神田川」に代表される四畳半フォークソングが若者の支持を集めていたが、ユーミンは自分の音楽を「ちょっと手を伸ばせば届くような優雅さを、歌にしたい」*¹と位置づけており、四畳半フォークについては、「現状より少しでも良い生活をしたいと望んでいるはずなのになぜみんな、貧しいみじめなもの、それを題材にした歌に、強く反応するのだろう。日本人特有のナルシシズムなのだろうか。私の前途は多難だ。」*¹と評している。
1970年代日本の経済が好景気になり、生活水準が高くなるにつれて「3C(カラーテレビ・クーラー・カー)」を保有することが豊かさを手にしたことになるという意識を生んだ。この「3C」という言葉で、当時の多くの日本人がモノの充足による幸福感の達成を信じていたことが裏付けられる。
1973年とは家庭にテレビが普及したことで、テレビが情報を得るための主要な手段となり。また、自動車も一般家庭に普及し、マイカーを持つ人が増えていった年であった。一方、第一次石油ショックが起こり、エネルギー源を石油に頼っていた日本は、経済的に大打撃を受けた。ほどなくして卸売り・消費者物価が急上昇し、工業の発展による高度経済成長は幕を閉じることになった年であった。
実際四畳半フォークの代表作である「神田川」の歌詞は、貧しかったけれどそれが良かったというのが主題である。貧しさへのノスタルジーである。過去を見て懐かしんでいる。未来をどうするという歌ではない。一方ユーミンのコバルトアワーの歌詞は、港につづく高速道路をマイカーで疾走し、真夏の桟橋越しに朝やけを見る恋人達が主題である。高度成長の終わりに、ちょっと手をのばせばとどきそうな世界が歌われている。
ユーミンが示した世界は、3Cを手にした人々が次に欲しがるものは何か?を提示したのである。それは、モノではなく、恋人と一緒にカッコイイ車の中から見る桟橋越しの朝焼けの風景である。つまりモノではなく体験である。今風に言うとsubscriptionである。それは30年経った現在、感動、体験といった消費行動がモノの所有より重要視されている事象の先取りであった。
神田川の世界も、それほどの貧乏は当時どこを探してもないという意味では、金では買えない郷愁を思い起させる追体験、というコトを提供していると言えるかもしれない。ユーミンとかぐや姫は方向は正反対であるが、高度成長が終わった日本人が欲しがる体験を提示した点で似ている。
初期のユーミンを四畳半フォークと対比して論じてみたが、高度成長が終わって石油ショックを経た日本は、1980年代後半にあのバブル期を迎えるのである。若者は、夏はサーフィン、テニス。冬はスキーとレジャーにうつつを抜かす時代である。四畳半フォークブームはとっくに去り、日本のポピュラー音楽はアイドル全盛期であったが、ユーミンは生き残っていた。「私をスキーにつれてって」(1987年)など中産階級が憧れる世界観を歌い、それは当時一億総中流といわれた日本人の価値観に沿い、しかもちょっと先取りしていた。「天国のドア」では、当時の日本のアルバム最高売上記録を約10年ぶりに更新し、史上初のアルバム200万枚出荷を記録。翌1991年発売の『DAWN PURPLE』に至ってはオリコン史上初の初動ミリオンを達成するなど、第三次ブームが到来した。以降、1995年の『KATHMANDU』までの80年代後半から90年代半ばにかけてオリジナルアルバム8作連続のミリオンセラーを獲得する。
ユーミンが生き残ったのはなぜだろうか。中産階級のちょっと先の夢を提示しつづけたからではないか。
*1 荒井由実「心の中の”オーブル街”を歩こう」『話の特集』1975年1月号(通巻108号)、話の特集社、1975年1月、26-27頁。
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