頼朝は大湿地帯だった武蔵国東部をどう行軍したか

縄文時代に海だった古東京湾の多くの部分は、利根川、荒川、渡良瀬川が運んだ土砂により埋め立てられた。中世の終わりころの戦国時代には、現在の江東区の南側くらいまでが陸地化したと考えられている。*1

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の中で、安房に逃れた頼朝が房総の御家人達を結集させ有力な豪族である上総広常を味方につけ、再び鎌倉に大軍勢と共に入る場面があったが、二万騎ともいわれる軍勢が当時大湿地帯であった武蔵国東部をどう行軍したのか、どこで利根川を渡ったのか、ドラマでは描かれていなかったが疑問に思った。玉川大学多賀歴史研究所の著作によると、「現在頼朝の北上コースは2つ考えられます.一つは東京湾岸を通って下総国府(市川)に至るコースと,成東あたりから下総国府を目指す内陸コースです.湾岸コース上には上総国府(市原)があり,危険です.また内陸コース上には態度をきめかねている「上総介広常」の居館があったと言われている「夷隅」(いすみ)付近を通過しなくてはなりません.どちらのコースにも頼朝の伝説が残っていて難しいところです.しかしキーポイントはやはりそのとき上総介広常がどこにいたか?という点にあります.頼朝にとって危険なのは国府の勢力よりも強大だった広常だからです.」*2とあります。下総の国における北上ルートははっきりしないようであるが、下総国府、現在の国府台から江戸川、隅田川を渡ったらしい。

吾妻鏡では「10月2日頼朝公は千葉の介常胤.上総の介広常とともに同じ船にのって大井川(利根川).隅田川を渡り武蔵の国に入った.早速,豊嶋の権の守(豊島清元),や葛西三郎清重らが参上した.また頼朝公の乳母の親戚である14歳の男子の烏帽子親となり小山の七治承四年10月2日、舟で太井川(利根川)、隅田川を渡り、隅田宿に着いた。…中略…頼朝の乳母(寒川の尼)が隅田宿に参上した」との記述があり渡河の場所は隅田宿との記述がある。

木村茂光「頼朝と街道」によれば「‥頼朝は実力突破することにし、治承4年10月2日、舟で太日川(江戸川(旧利根川))、隅田川を渡り、隅田宿に着いた。…さらに4日に長井渡し(三河島から王子にかけての湿地帯)を越えるとようやく秩父平氏の有力メンバーである畠山重忠、河越重頼、江戸重長らが参向し、頼朝に帰順した。」とある。隅田宿とはどこだろうか?

都立東白髭公園の案内板には

「当地は古東海道の渡河(とか)地で、平安時代の末頃には隅田宿が成立していたといわれています。
 隅田宿は、治承(じしょう)四年(一一八〇)に源頼朝が布陣したと伝わる宿(しゅく)で(『吾妻鏡(あづまかがみ)』)、元来は江戸氏など中世武士団の 軍事拠点であったと考えられています。遅くとも南北時代までには人と物が集まる都市的な場が形成されたようで、歌人藤原光俊(ふじわらみつとし)が詠んだ という十三世紀中期の歌には、多くの舟が停泊してにぎわう様子が描かれています。(『夫木和歌抄』(ふぼくわかしょう))。
 また、室町時代成立の『義経記(ぎけいき)』には、「墨田の渡り両所」と見え、墨田宿が対岸の石浜付近と一体性を有する宿であったらしいこともうかがえ ます。対岸との関係については今なお不明な点を多く残しますが、隅田川東岸部における宿の広がりについては、江戸時代の地誌に載る一部の伝承と絵地図が参考に なります。それらを分析した研究成果によれば、所在範囲はおよそ図示したように想定されます。平成二十五年三月 墨田区教育委員会」との記載がある。

東白髭公園案内板に記載の隅田宿の推定範囲

 再起を期して鎌倉に向かう源頼朝が隅田川を渡ったのは、隅田宿であったのは吾妻鏡に記述があるが、その後はどこを通って湿地帯を行軍したのかについて吾妻鏡には長井渡を経たとしか記述がない。
 (『吾妻鏡』治承4年(1180)10月、「太井・墨田の両河を渡らるる」)*3

鈴木理生氏の著書「江戸の川・東京の川」によれば「吾妻鏡」「源平盛衰記」「義経記」を総合して次のような推論を展開している。「頼朝軍は太日・隅田川を『隅田宿で』渡河してから、『長井渡』を経て武蔵野台地に入った。『長井渡』とは浅草ー水ノ輪ー金杉ー中里ー王子滝野川の武蔵野台地北東端に沿った入間川水路であった。」頼朝軍はこの水路を舟で渡ったと推測している。

 十三世紀後半に成立した「源平盛衰記」によれば、「在家をこぼちて浮橋を世の常に渡し、…武蔵野国豊島の上、滝野河、松橋」に上陸したとある。下総の国(=市川あたり)から利根川、隅田川を舟で渡河したあと、その頃は一面湿地帯であった地域であったが、特に長井渡しと呼ばれる水路があったのであろう。隅田宿とは現在の隅田川岸の石浜神社あたりである。そこから三ノ輪をとおる微高地に沿って、浅瀬には浮橋を浮かべながら王子で武蔵野台地に上陸したものと推察する。

 現在の王子駅は京浜東北線の駅であり、駅の南には飛鳥山がこんもりとした森となって高台となっている。この飛鳥山は日暮里から続く断崖の一部であり、飛鳥山の東にも崖が続き、王子駅のひとつ東京寄りの上中里駅はこの崖の下にある。ひとつしかない上中里駅の改札を出ると、そこには平塚神社へ続く急な蝉坂がある。この坂の上にある平塚神社はかつての平塚城址にに建つ神社で、あたり一帯を治めていた豊島太郎近義が創建したと伝わる。

 豊島氏は、平安末期から室町中期まで400年間ほど豊島郡を中心に勢力を持っていた豪族である。豊島氏の支配地域は、都内の北区・練馬区を中心に板橋・杉並・中野・新宿・豊島・文京・荒川・足立・葛飾区の一部などであった。豊島氏は、坂東八平氏の一つ秩父氏の流れを汲み、秩父氏の支族が入間川を下り豊島に土着した。そして、「豊島」を名乗る一族が出たとされ、この王子地域には石神井川があり、水運をつかさどる一族であったとされている。

 前述したように、頼朝が10月2日に隅田川を渡った時に駆け付けた豊島清元は、この平塚城を配下に持つ豊島郡の豪族の頭目であったわけである。頼朝軍は豊島清元の案内で長井渡しの湿地帯を行軍し、王子付近の断崖に辿りつき2万人の将兵が崖を駆け上がった。軍勢は飛鳥山一帯に布陣したことだろう。

 私は2満余の頼朝軍が飛鳥山から東十条にかけての崖を駆け上がる光景を想像する。馬上の将達や徒歩の歩兵たちが埃を上げて登坂する様は、さぞ壮観であったでことであろう。その後豊島氏の手配で食料や水、馬用のかいばなどの補給もしただろうし、頼朝とその重臣たちは清元の館で暫しの休息をとったことだろう。

*1 江戸東京博物館資料より

*2 玉川大学・玉川学園協同多賀歴史研究所 多賀譲治HP

*3 

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