関東平野における縄文海進と湿地帯の開発

 関東平野は丘陵地、台地および低地から成り立っている。造盆地運動により沈降した海底に、周囲の山地や火山から供給された土砂が堆積し、海水により浸食が繰り返され、加えて地殻変動による隆起、沈降といった活動によって、多摩丘陵や狭山丘陵といった丘陵地や、下末吉面、武蔵野面、立川面といった段丘面が形成された。

 現在の隅田川、荒川、江戸川、旧中川などの河川沿いの低地は、約6000年前の縄文海進以降の堆積物で覆われている。

 縄文海進とは、約6000年前に起こった地球規模の温暖化で、海面が上昇した現象のことである。その時の海岸線は奥東京湾と呼ばれ、現在の栗橋、幸手、大宮、浦和、野田、流山、王子、品川、大森などが海岸沿いに位置したことが判明している。これらの地域からは貝塚が発掘されていることからも裏付けられる。

東木(1926)による関東低地の海岸線図

 その後海が後退して、奥東京湾は広大な湿地帯となった。NHKの大河ドラマ「どうする家康」の10月1日放送では、秀吉から関東への国替えを命じられた家康は、部下の三河諸将を関東の要所に配置して城持ち大名にした。中でも猛将の本多忠勝を上総国(千葉県中央部)に配したのは、北の伊達政宗に備えるためだとの説がある。北から江戸を攻めるには、大湿地帯である埼玉東部を避けて、上総に入りそこから船で江戸を攻めることが想定された。だからこそ戦国一の猛将本多平八郎忠勝を上総に配置したのである。そして、ドラマでは湿地帯の江戸の開発に思案する家康に、伊那忠次が「妙案がございます。こちらの神田山を削り、その土で日比谷入り江を埋め立てるつもりでございます。」と進言し、家康も「大いにやるがよい」と返した。

 家康は不毛の地関東を肥沃な大地とするために、伊那忠次に命じて一大治水工事を始めた。それは利根川東遷である。利根川が東京湾に注いでいるために、その莫大な水量が長雨や台風などの際に氾濫を繰り返し、湿地帯を維持し続けている。その利根川を銚子沖に流れを変えてしまおうというのである。もちろんこのような大工事は家康存命の期には完成せず、完成に至ったのは江戸時代を経て大正15年のことであった。

 伊那忠次の息子伊那忠治が、多くの新田が開発された芝川下流域(現川口市)の灌漑用水を確保するために、木曽呂村・附嶋村(現:さいたま市緑区大字大間木字八町・附島付近と川口市木曽呂付近)に長さ8町(約870メートル)の堤防八丁堤を建設して水を溜め、このダムが作る灌漑用貯水池を見沼溜井と称した。平均水深8尺(約2.7メートル)、周囲10里(約40キロメートル)にも及ぶ溜井により、下流の灌漑は成功したが、その一方で、見沼周辺では多くの田畑が水没した。見沼溜井より北は相変わらず沼地と湿地帯で、耕作には適さない土地であった。 

利根川東遷に加えて、埼玉県東部地域の地形に影響を与えた治水事業がもう一つある。1727年、享保の改革の一環として新田開発を進めていた8代将軍・徳川吉宗は勘定吟味役に紀州藩士・井沢弥惣兵衛を登用して見沼溜井の干拓を開始した。井沢は溜井に代わる水源として見沼代用水を現・行田市の利根川から約60 kmにわたり開削して灌漑用水とした。見沼溜井の代わりの用水なので「代用水」と名付けられた。一方で、八丁堤を破り、溜井最低部に排水路を開削して芝川と結び、荒川へ放水する工事を1年で完成させた。広大な溜め池は穀倉地帯に生まれ変わった。国家的プロジェクトとしての見沼代用水の開削は、新田開発(約 1,800 ha)と既存田を合わせた約 15,000ha(東京ドーム270個分)の水田へ豊富で安定した用水供給を可能とし、当時の食糧増産と財政再建に大きく貢献した。

この井沢弥惣兵衛の治水工事「見沼代用水工事」こそ、現在の埼玉県東部を発展させた画期的事業であり後世に残る偉業である。伊那家による「溜める治水」から井沢弥惣兵衛による「流す治水」は治水原理の180度の転換であり、同時に江戸への舟運を開いた物流インフラ整備でもあったのである。

Wikipedia 見沼より

通船堀建設の背景

 1727年(享保12年)に開削された見沼代用水は、新田の開発のため灌漑用の溜池であった見沼溜井の代わりとして利根川から引かれた用水路である。用水路は、水田等の灌漑目的であったが、利根川と荒川の間を流れており、年貢米などを江戸に運ぶ水路としても有用であった。しかし、用水路は江戸まで直接つながっていないため、江戸市中を流れていた隅田川に注ぐ芝川と代用水とを結ぶ必要性があった。二本の用水路は芝川より数キロメートル程度しか離れていないが、標高で約3メートルほど高い位置を流れており、直接運河を掘っても水流のため船を通すことが困難であった。このため、井沢弥惣兵衛為永が1731年(享保16年)に普請を指揮して閘門式の運河を建設した。この運河を見沼通船堀という。

見沼通船堀 日本最古の閘門式運河(仲田一信著) 85頁 浦和市尾間木史蹟保存会発行 1966年9月1日
さいたま市見沼通船堀のしくみ

この見沼通船堀は、見沼代用水の建設にあたった勘定吟味役の井沢弥惣兵衛為永が1731年(享保16年)に普請を指揮して行われた。閘門式運河は、運河を結ぶ2点間の水位が異なる場合、途中に水門を設けて、そこで水位を調整して船を通過させるものである。同方式のものでは太平洋と大西洋を結ぶパナマ運河が有名である。

米の増産と舟運の活性化に寄与した通船堀であったが、船の運航は1931(昭和6)年で終了した。

その後、1982(昭和57)年に通船堀は国の史跡に指定され、復元工事や再整備が現在も進められ、現在も木製の閘門が往時の姿で再現されている。

見沼通船堀では、江戸時代の通船の様子を再現する閘門開閉実演を行っている。閘門開閉実演は、復元した閘門を活用して、水位調整の様子を再現するもので、例年8月下旬に開催している。

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