埼玉でうなぎが食べられるようになったのは、江戸時代だといわれています。当時、浦和の周辺にあった川や沼地では、川魚に混じってうなぎが生息していました。江戸と京都を結ぶ中山道、日本橋から3番目の宿場町として栄え、多くの人が行き交い賑わいを見せていた江戸時代の浦和周辺。そこには、川や沼で魚釣りをする行楽客の姿がありました。訪れる行楽客のために地物のうなぎを出したところ、これが大評判となりました。その後、わざわざうなぎを食べるためにここへ訪れる人の姿もあったのだそうです。*1
*1 埼玉りそな銀行HP
浦和に鰻屋が多い理由の一つめは、地形的な理由からであり、沼地や川が多いというものである。沼地が多いというのは、縄文時代の奥東京湾の名残りで湿地帯であったことに起因する。この湿地帯に関しては、筆者の別投稿「関東平野における縄文海進と湿地帯の開発」に詳しいので参照願いたい。
浦和はほぼ全域が大宮台地の上にあり、東部の大宮台地の縁に 藤右衛門川 などの中小河川が入り込んだ地形である。そのような地形的理由からうなぎの生息地として適しており、江戸時代は鰻を捕る漁師もいたのではないかと推測している。
二つ目の理由は、中山道の三番目の宿場町であったこと。しかし江戸から近すぎたことから通行者は休憩が主で旅館が少なく、江戸期の浦和宿の人口は、武蔵国に属する板橋宿から本庄宿までの宿場町10箇所のうち8番目と少なかった。宿場町としては規模の小さい浦和宿であったが、市場としては戦国時代からの歴史があり、毎月の2と7の日には「六斎市(ろくさい-いち)」が立って賑わいを見せていた(二七の市)。要は鰻を消費する消費者が存在したということである。
そのほかには、たれの材料である醤油の産地である野田からそう遠くないことや、みりんの供給元である酒蔵も浦和宿からは少し離れるが、現在の中浦和に内木酒造という造り酒屋があったことなとが挙げられる。
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