これは一体何というとてつもない映画だろうか。もはや映画という枠を超えてしまった。人類の歴史を「類人猿の放り投げた骨が、空高く消えたと思ったら、宇宙船になっている」という数秒の映像の中に凝縮してみせた。武器がそして戦争が人類のテクノロジーを進化させ、ついには宇宙船を生み出すまでになったことを映像で示している。これはエンターテイメントを越えて、言語による説明によらず映像と音のみで表現された進化論であり、文明論である。いや文明論をも越えた宇宙の摂理を観客に示して見せている。
人類が生み出したテクノロジーは宇宙船に留まらず、宇宙船に積まれたコンピュータがついに知能を持ち、人間を殺すという行動をとるまでの意志を持つことが描かれる。意志をもったコンピュータは究極の武器である。人類は自ら作りだしたテクノロジーと闘わなくてはならなくなった。というかボーマン船長はAIであるHALに殺されかけるのである。ボーマンを救ったのはもはや人類ではなく、黒い石板の外観を持った「全能知=神」であった。映画の中でそれ以降ボーマン以外の人間は登場しない。その時すでに他の人間達は、HALに全員死に追いやられ、たった一人生き残った人類がボーマン船長なのではないか。青年であったボーマンが老人になって死の床についた時、ボーマンは一人の人間としではなく、人類の代表として画面に登場している。目の前に現れた黒い石板=神にひとさし指を伸ばす構図は、ミケランジェロの「アダムの創造」の構図を想起させる。ボーマンは神に創造されたアダムの末裔なのである。そのアダムの末裔の人類が瀕死の床についているということは、人類の滅亡の淵にいるわけだが、すでに人類が存続するかしないかはどうでもよいことで、人類が発明した武器は進歩を遂げてゆきついに人類を滅ぼすまでに至ったことが、映像のみで語られているのである。
ミケランジェロは神が人類を創造したことを寿いでこの絵を描いたが、スタンリー・キューブリック は、ボーマン対石板の場面を、人類が武器を発明したことへの贖罪を神に求めたと解釈できないだろうか。この時流れる音楽はリハルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」であり、シュトラウスはこの映画のためにこの音楽を作曲したのではないかと錯覚する。シュトラウスが「ツァラトゥストラ」を作曲したのは1897年、キューブリックが「2001年」を製作するより70年も前であるから不可能なのであるが、それほど映像と音楽がピッタリとマッチしている。
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