葛飾区は今は東京都だが、もともとは下総国葛飾郡だった。下総国の国衙は今の千葉県の市川市の国府台にあったことからもわかるように、もともとの葛飾郡は千葉県の方が本拠地であった。今でも、市川市、松戸市、船橋市、柏市などは「東葛飾」地方と呼ばれている。
「柴又」はかつて「嶋俣」であったのが訛ったというのが定説で、縄文海進の名残りの奥東京湾の一部であった頃、その中に点々と島々があり、嶋俣もこの島の一つであったという。古利根川が上流から運んできた土砂が堆積して洲となり、やがて一千年もの年月の間に島と島の間に堆積して陸地化していった。時は下って慶安元年(1648年)の検地以降「柴又」という文字に統一された。
帝釈天は通称であり、正式には題経寺という日蓮宗のお寺である。寛永六年(1629)千葉県の中山法華経時の日忠上人が草創したという。このことからも柴又が下総国勢力下にあったことが窺い知れる。帝釈天は通常仏教の守護神である天部の一人を指すが、お寺の本尊は境内にある大曼荼羅である。1800年代のはじめには、帝釈天を象徴する帝釈堂、1896年には参拝客を出迎える二天門が建てられている。
上の図は約6000年前の関東平野の海岸線である。現在の千葉県は下総台地の上にあるが、葛飾区は海の中である。この海が陸化していくのであるが、江戸時代以前はまだ大湿地帯であった。中山の法華経寺から来た僧が、江戸初期に題経寺を建立したのも地形を見ると理解できる。湿地帯時代はそれほど人も住んでいなかった地域において、幕府が灌漑を進めて田畑を開墾し、定住者が増えるにつれ集落ができた。そして冠婚葬祭等の集落のよりどころとして寺が必要とされ、下総台地の日蓮宗大本山である中山法華経寺から僧を招いて建立されたと推測する。
この葛飾区の地域には6000年前より古利根川が流れ込んでおり、家康が利根川を東遷した現在においても綾瀬川、中川、江戸川など幾つもの河川が存在する。
葛飾区の北部に中川、大場川という二つの川に囲まれた低湿地帯を水元という。このあたりは長い間、水害に苦しめられてきた。昭和22年(1947)のカスリーン台風による被害は特に大きかった。上にカスリーン台風で浸水した場所を図示した。人々が利根川を人工的に銚子方面に切り替えても、巨大台風などひとたび大自然が猛威をふるえば、濁流は元の流路を辿ることを示している。カスリーン台風の浸水被害域は古利根川流域と重なっていたからである。
ところで水元という地名は江戸時代に遡る。享保14(1729)年猿ヶ俣で東流し、江戸川に合流していた古利根川が締め切られて、小合溜井(現水元小合溜井)が設けられた。溜井とは、用水をためておくために河川をせき止めた場所であり、小合溜井は「古利根川をそのまま溜井となしたるなり」との古文書の記述がある。一方亀有溜井に流れ込んでいた古綾瀬川が締め切られた。中川は川幅が約3倍に広げられ、本流となった。この工事は享保7(1722)年に8代将軍徳川吉宗が紀伊国(和歌山県)から招いた井澤弥惣兵衛が当たった。この小合溜井が葛飾地域の灌漑用水の水源地となったため、「水元」と呼ばれるようになったのである。
水元公園は1940年、紀元2600年事業のひとつとして水元緑地が計画されたのが始まりである。1942年までに168 haが買収されたが、太平洋戦争により整備が中断。戦後は自作農創設特別措置法によって150 haを耕作者に開放した。1957年、都市計画改訂により水元公園として再発足(建設省告示1689号)し、1959年に用地買収を開始、1964年までに8 haを取得、整備の上、1965年4月1日に開園した。1968年、明治百年記念事業の一環として明治百年記念公園の指定を受ける。1987年にかけて、記念広場と「メタセコイアの森」が順次整備された。
コメント